京都民医連第二中央病院広報誌 2010年5月発行 vol. 14

「チーム毒ガス」ハルピン市で行った毒ガス被害者検診活動

神経内科  磯野 理

中国大陸
今年3月17日から22日まで中国黒龍江省ハルピン市のハルピン第二医科大学の施設をお借りして、チチハル市で2003年に起きた毒ガス被害者の検診活動が行われた。私は神経内科医としてその検診に参加した。

旧日本軍が遺棄した毒ガス

 2003年8月4日、黒龍江省チチハル市内の団地の地下駐車場建設現場で5本のドラム缶が掘り出された。パワーシャベルがドラム缶に突き刺さると中からカラシのようなにおいの液体が流れ出した。これが実は終戦時に日本軍が遺棄したマスタードガスという毒ガス兵器だった。工事現場で働いていた若者、ドラム缶を買い取った廃品業者、捨てた液体が染み込んで汚染された土を、自宅の庭の畑や中学校の敷地に運び込み、それに触れた人々など合わせて44人(1人が亡くなった)が被害にあった。マスタードガスはびらん性ガスと呼ばれ、触れると数時間後に皮膚がただれやけど状となり腫れ上がり、激しい痛みに襲われる。ただれは難治性である。またマスタードガスを吸い込むと激しく咳き込み呼吸困難になる。次第に体力が落ち、体の自由が利かなくなる。免疫能が低下し極端な虚弱体質となり後遺症は一生治ることはない。大半の被害者が働けなくなり、重い病気と生活苦に苦しめられている。被害者は全員、戦争とは何の関係もない戦後世代である。マスタードガスをはじめ様々な毒ガス兵器は無差別にそこに居合わせた人々に被害をもたらすので、いまや核兵器とならんで「大量破壊兵器」と呼ばれている。

被害者の検診を実施

チーム毒ガス ハルピン第二医科大を背景にした「チーム毒ガス」の面々。

 チチハル事件の44人(遺族1人含む)は2006年1月日本政府に対する損害賠償を求めて東京地方裁判所に提訴した。昨年暮れで結審して、この5月にも判決が出る予定である。この裁判に関わった弁護士と診察した医師が中心となり、2006年、2008年、2010年と2年毎に被害にあった方々の検診を行ってきた。2006年は、最も重大な障害と考えられた呼吸器系の障害について評価し、マスタードガスの発癌性について経過を追うための基礎調査ということで行われた。東京民医連呼吸器内科医の藤井正實医師が診察にあたった。ところが藤井医師は被害者を診察していくにつれ、被害者が後遺症として苦しんでいる症状は呼吸器障害ではない、ということに気付いた。皮膚の痛み、咳や呼吸困難は症状としてはあるが、大半はこれで仕事ができなくなるほどではないのだ。何故働き盛りの若者や一家を支える大黒柱が、仕事が出来なくなるのか?藤井医師は被害者の多くの瞳孔が散大して(大きく開いて)いることに気がついた。また寒い3月にもかかわらず、皆、顔や手に汗をかいていた。これらの症状から、被害者に共通する最も大きな問題は自律神経系の異常ではないか?と推測した。

神経障害

スタッフ 検診に参加した被害者と通訳と検診スタッフ(チーム毒ガス)
橘田医師 診察風景 橘田亜由美医師

 そこで2008年の検診には神経内科医である大阪民医連の橘田亜由美医師が同行した。橘田医師は、発汗異常(殆どが発汗過多)や頻尿や下痢といった自律神経障害の症状が著しいことを確認した。更に、殆どの被害者が記憶障害を訴えていることに気づいた。詳しく診察するうちに約束を覚えられない、言われたことをすぐ忘れるなどの症状が、仕事に就けない、ついても長続きしない一因ではないかと考えた。また少数で著明な視覚認知障害が認められた。以上のことからマスタードガス暴露の慢性期症状として高度の自律神経障害、記銘力障害をはじめとした高次脳機能障害が新たに浮かび上がった。

 マスタードガスが使用された近年最も有名な戦争は、イラン・イラク戦争(1980~1988年)である。サダム・フセインはイランに対してマスタードガスを使い、5万人ものイラン人が被害を受けたとされている。それらの被害に関して膨大な医学論文が報告され、皮膚症状、呼吸器症状、免疫能低下について詳しく論じられているが、神経系の障害、自律神経障害や高次脳機能障害について論じられたものはない。イラン・イラク戦争以前の論文も同じである。つまりチチハルの被害者がこれだけ苦しんでいる神経障害について世界的に実証した報告がないのである。

神経障害の実態

 2010年の検診は神経症状を更に詳しく検討するため私と理学療法士、作業療法士がそれぞれ1名ずつ加わった。今回の検診でいくつかの詳しい検査を行ったことにより神経障害の実態がほぼ正確に把握できたと考えている。殆どの被害者に共通して見られる症状は、

  1. 自律神経障害:著しい頻尿日中10~20回、夜間5~6回。尿意促迫(行きたくなると間に合わない)。下痢。手足または全身の発汗過多。
  2. 記憶障害:高度の記銘力障害あるいは全般性認知機能低下。
  3. 易疲労:筋力は当初は保たれていても同じ動作を繰り返すと極端に筋力低下が起こる。

などである。現在これらのデータを整理中である。

 今後の課題は、今回明らかになったマスタードガスの神経障害の実態を世界に知らせること、神経障害の病態を明らかにすることにより治療の方法を探り、被害者の苦痛を少しでも軽減すること、であろう。「チーム毒ガス」の仕事はまだまだ続きそうである。