京都民医連第二中央病院広報誌 2007年9月発行 vol. 9

原水爆禁止2007年世界大会・長崎へ行ってきました!

 広島・長崎に原爆が投下されて62年。唯一の被爆国として「二度とあのような悲劇をくり返してはならぬ」という願いをもとに1955年、第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。53回目の今年は8月7~9日の3日間、長崎にて開催されました。

 毎年、わたしたちの病院では、カンパを募り代表団派遣しています。今年は第二中央病院エリアから7名、健康友の会から1名が参加しました。感想を一部ご紹介いたします。

リハビリテーション課 宮川貴安/吉田綾子


平和祈念像
「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」

 今回、原水禁世界大会に初めて参加させて頂きました。長崎の会場には全国からたくさんの人達が来ており、意見交流し、平和の意義について考え直すよい機会になりました。

 特に印象に残ったのは分科会の「原爆遺構めぐり」です。実際に原爆を体験した人のお話を聞かせていただき、その話は大変心に響くものでした。62年前の8月9日も、参加した日のようにとても暑く晴れた日で、こんな日に原爆が落とされ、人々が、水や食料、家族を求めて歩き回っていたと思うと本当に恐ろしく、戦争を身近なものに感じました。

 私たちは、今、戦争の無い国で生きており、平和なこの生活があたりまえになっていますが、世界では、戦争による悲劇が繰り返されています。今回参加された人だけでなく、1人1人が「戦争を無くしたい!」という思いを持って生きていかなければ、と実感した3日間になりました。

外来診療事務課 瘧師ちえ

第二中央病院エリアの代表団

 今回、わたしが一番印象に残ったのは、やはり被爆者の訴えでした。

 多くの家族や友人を一挙に原爆で失い、自分も被爆の後遺症に長年苦しみながら、また自分だけ生き残ったことに負い目を感じながらの人生。差別にあい、家族にすら被爆の事実を話せなかった人。この人たちはどうしてこんなつらい生き方をせねばならなかったのか。「原爆は落ちたんじゃない、落とされたんだ」という言葉が重く響きました。

 「政府が勝手なことをしても、一番強いのは世論なんだ。運動というのは、ずっと続けていくことが大事。いやになって放り投げたらおしまいだよ」

 52カ国をまわって被爆の実相を世界に伝え、人生のほとんどを核兵器廃絶の運動に捧げてこられた被爆者の方の言葉です。この言葉を胸に、被爆者の思いをしっかりと引き継いでいきたいと思いました。

すこやか薬局 中川直人


1945年8月9日11時2分で止まったままの時計

 私は学生時代に沖縄、長崎、広島、現在でも戦争の跡が色濃く残る地域を訪問し、被爆者や沖縄戦を体験した語り部の体験談を聞かせていただいた経験があるため、戦争についてはある程度の知識があると思っていました。

 しかし、原水禁世界大会への参加が決まり、講演等に参加し勉強していくにつれ自分の無知に気付き、この機会にしっかり学んで来ることを決意しました。

 開会式では、世界各国から参加された方が原爆に対する思いを語っておられるのを聞き、2日目には原爆症認定訴訟についての分科会に参加し、多数の被爆者の訴えを聞きました。その中でも印象的だったのが、被爆の影響が世代を超え、娘さんに知的障害が残ったという内容のお話でした。司法が原爆症と認めたにも関わらず、厚労省が控訴したため、裁判はさらに続き、「認定されるまで闘い続ける」と涙ながらに訴えておられたのが忘れられません。

 戦後62年が経ち、過去の戦争の事実を忘れてしまいがちですが、戦争体験のない人でも戦争の悲惨さを知り、それを伝えていくことはできるはずです。大会に参加し、平和を守るには不断の努力が必要であると感じました。